トランプ政権が誕生し、フェイクニュースという単語が流行り始めて久しい。
そろそろ落ち着く頃かと思いきや、未だ「切り取り報道」、「印象操作」、「メディアが信じられない時代」と嘆く声を耳にするので、疑問を呈したい:
- 「メディアを信じても良い時代」などかつて存在しただろうか。
- 「切り取らない報道」は実用的だろうか。
- 「事実を淡々と伝える」ことなど可能だろうか。
試しに、「理想の報道」を考えてみよう。
例えば、国会だけでも何時間と会議が続くわけだが、発言を切り取らないからには、議事録をそのまま載せるほかあるまい。
そうしないと、「何が重要な発言で、何が重要でないか」という個人の主観が入ってしまうからだ。
もちろん「どの出席者が重要か」に関しても主観が入らないよう、出席者名簿もそのまま載せる必要がある。
発言だけでは何を言っているか分からないことがほんとんどだろうから、会議で配られた資料も添えておくとよい。
ひとつの会議だけでも膨大な情報量となりそうだが、無論、「どの会議が重要か」も主観なので、上記は少なくとも国会内の全ての会議と記者会見について行わなければならない。
気が遠くなりそうだが、考えてみれば、政治部はまだマシな方である。
経済部ともなると、世界中の会社の株主会議の議事録を載せることになるのだから。
この時点でお解りいただけるだろうが、このような新聞は作れたものではない。そして何より、作れたところで、需要がない。
こんなものを読む時間がある人なら議事録(国会会議録検索システムなど)を直接読むなり、自ら国会や政治家の事務所などを訪れインタービューを行えば良いのである。
しかし、平均的な国民はそこまで暇ではない。
だから、少しずつお金を出し合い、記者を雇って、世の中で起こっていることを要約してもらうのである。
これが「メディア」という仕組みであって、切り取る事こそがメディアの役割ではないのか。
ここで大事なのは、選択肢があることだ。
北朝鮮の労働新聞のように、一つの会社が報道を独占していると、一方的な意見しか聞けない。
しかし、自分の意見に合った新聞を選ぶことができれば、「報道を読んで受けた印象」と「実際に直接見た場合受けるであろう印象」を近付けることができる。
そして日本において、この選択肢は全て揃っている。
朝日新聞や産経新聞でも選択肢が足りないなら「LITE-RA.com」から「虎ノ門ニュース」まで、監視されることも逮捕されることもなく、自由自在に情報源を選ぶことができる。
鵜呑みにこそすべきでないものの、報道を「疑う」だけでは、都合の悪い情報を「フェイクニュース」の一言で片付けることが許される状態を作り出すのみであり、非常に危険である。
典型例を挙げると、内閣支持率が37%との報道に対し、「自分の周りの人は皆政権を支持している・していない」といった理屈で本気で否定している方を見かける。
一方は「政権が圧力をかけて数字を上げている」と主張し、他方は「隣国が日本を貶めようと低く見せている」と叫ぶ。
一見話が変わるようだが、自分にも、「なぜ Twitter をしている人はこんなに絵が上手いのか」と不思議に思ったことがあった。
答えは簡単で、そういう人をフォローしているからである。
SNS を使っていると、「世界と繋がっている」ように錯覚することがあるが、人々が国や会社や学校など、属するコミュニティーを選ぶのと同様に、ネットでの繋がりも自らの取捨選択によって成り立っていることを意識しなければ、世の中の捉え方が大きく歪んでしまうことがある。
一方、全国区で戦う各報道機関は、そういった危険性が低い。競争のある環境下で全くの嘘を伝えようという動機は生まれにくく、思う以上に、報道が真実に近い可能性が高いことを忘れてはならない。
メディアが信じられない時代になったのではなく、元よりメディアとはたかが他人が書いた要約であり、一意見としてのみ受け止められるべきものだ。
それを踏まえた上で考えの近い報道機関を見つけ、自ら考える。
信じるでも完全否定するでもない、”ハイブリッドな” 報道の捉え方が求められる。これまでもそうであったし、これからも変わらないだろう。
頭ごなしに「事実を報道せよ」と要求する姿は、「情報を鵜呑みにできるよう、自分専用に噛み砕いてから伝えよ」という実現不能なわがままにしか見えない。